話題のトピックについて、詳細に触れています。
2021年5月21日以前の記事です。
2016.08.23
8月23日、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われた「戦後71年・第14回シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」に自民党を代表して出席した。二階幹事長の挨拶文(私が作成)を代読し、私からの言葉も添えた。
抑留者らでつくる「シベリア抑留支援・記録センター」の主催。終戦後の1945年8月23日にソ連軍最高指揮官スターリンが、日本軍捕虜をシベリアなどに移送、収容して鉄道建設など強制労働に従事させることを極秘に指令したことが、1992年(平成4年)になってわかり、この日に開催されている。
自民党代表としての挨拶文は次の通り。
「先の大戦が終わった後、シベリアをはじめとする旧ソ連邦領内やモンゴルなどに強制抑留され、『日本に帰りたい』『家族に会いたい』と強く願いながら帰国を果たせず、極寒の地で亡くなられた5万5千人以上の御霊に、謹んで追悼の誠を捧げます。
どんなに寒かったでしょう。ひもじかったでしょう。途方もない重労働、辛かったでしょう。薬も与えられず、病気に苦しまれたことでしょう。どんなに痛かったでしょう。想像力の限りを尽くしても、まだ足りません。
『ダモイ(帰国させる)』と言って遠く連れ去られ、零下30度、40度という地において、長期間にわたって過酷な強制労働に従事させられた57万人以上の抑留者の方々のつらさ、苦しさ、そして残されたご遺族の悲しみ、待ち続けたご家族の不安。日本人が決して忘れてはならない、次の世代に継承すべき事件であると、改めて心に刻む次第です。
シベリアからの最後の引揚船が舞鶴に着いたのは、昭和31年12月。今年はそれから60年になります。また昨年、舞鶴引揚記念館が所蔵するシベリア抑留に関する資料が『舞鶴への生還』としてユネスコの世界記憶遺産に登録されました。
今こそ、実態調査と遺骨収集を急がなければなりません。
平成23年の戦後強制抑留者特別措置法、さらに前国会で『戦没者の遺骨収集の推進に関する法律』を議員立法で成立させました。
自民党としても、関係者の皆様のご指導をいただきながら、ロシア側の協力も求め、政府とともに取り組みを一層強化してまいります。
終わりに、抑留中に亡くなられた方々と引き揚げ後、多大なご苦労の中で日本の発展に貢献され、これまでにご逝去された方々のご冥福、今日ここへは来られなかった抑留引揚者及び関係者の皆様のご平安を心からお祈りして、挨拶といたします。」
このあと、個人的な思いとして次のように語った。
「私の夫の父は新潟県で召集され、日本の領土だった千島列島の松輪島の守備隊にいたところ、シベリアに連れて行かれました。抑留時代のことを尋ねても『話したくない』の一点張りでした。きっといやなこと、つらいことばかりだったのでしょう。
南樺太を含め、当時の日本の領土からも、民間人や女性を含め多くの日本人が、ポツダム宣言受諾後に連れ去られた事実を、日本人が知らなさ過ぎます。
私は今から7年前、ウズベキスタンを外務大臣政務官として訪問した際、タシケント市内の日本人抑留者墓地をお参りいたしました。シベリアだけでなく、ここにもいらっしゃったのかと正直驚きましたが、幸い、ここでは現地の方がお墓を守ってくださっていました。市内のナボイ劇場は抑留者たちがほとんど工具もなく石を積み上げて作り上げたものですが、その後、地震で他の建物がすべて壊れた時にも、この劇場だけは崩れなかった。日本人の真面目な労働は素晴らしいとウズベキスタンの人々は敬意を払っていると伺い、誇らしさとともに、つらさが込み上げ、その劇場の建物に全身をくっつけて抱きしめて泣きました。
シベリアからの最終引き揚げが、昭和31年暮れであったと知った時も衝撃を受けました。私は31年夏生まれで、私が生まれた後もシベリアに残されていた人たちがいたのですから。
今後、政治家としても、一日本人としても、抑留問題に強い関心を持って、この問題は与党も野党もなく、進めていくことをお誓い申し上げます。」
抑留帰還者で生存しているのは推計2万人。大阪府豊中市から参加した池田幸一・同センター世話人(95)が「抑留死亡者は戦陣に散ったのではありません。武装解除後に、収容所や病院で栄養失調や病気で静かに息絶えたのでした。英霊という言葉にも違和感があります。むしろ拉致被害者でした。みじめで、寒々とした、意味づけのできない、まことに屈辱的な死でした」と述べたのが印象に残った。