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2021年5月21日以前の記事です。
2017.07.05
元衆議院議員、与謝野馨先生の「お別れの会」が本日7月5日、青山葬儀所で開かれた。自民党と与謝野家の合同。4月末に、病床の先生の強い希望がかなって復党が認められ、本当によかった。与謝野さんの声かけと尽力がなかったら、政治家松島みどりは誕生していない。
自民党が初めて野党になり細川8党連立内閣が誕生して約半年後、小選挙区制度が導入されることになった。東京は一挙に選挙区が25に増え、候補者が足りない状況だった。私は朝日新聞の政治部の記者、与謝野先生は当時、都連幹事長だったが、直接の面識はなかった。大好きな与謝野晶子の孫(私は高校時代、二時間にわたり晶子の研究を発表したことがある)で東大野球部マネジャー出身(私はずっと後輩の応援部)という認識しかなかった。全国的にも新人候補が足りず、亀井静香先生など複数の議員にも声をかけられた。故塚原俊平元通産大臣に与謝野さんを紹介され、私を認めてくださり、自民党初の公募を実施するから受けてほしいと言われた。
作文と面接に通り、選挙を目指す立場になることが決まった。36歳から37歳にかけてのことである。選挙区は墨田、荒川の東京14区を選んだ。自社さ連立政権で与党に復帰後、与謝野先生は忙しい公務の間を縫って、荒川区や墨田区の区議会控室に足を運んでくださった。「松島さんは私以上に経済界に顔が広い」とか「資金については心配しないでください」とか大風呂敷を広げて区議らを説得してくださった。
亡くなられた直後、複数の区議さんが20年以上の前のそのことを思い出して、「ついこの前の気がする。与謝野先生がここまで言うんだから、無名の落下傘でも信じようと僕らは思ったのだから」としみじみ語っていた。
与謝野さんの昨年11月24日付のブログ「私の歩んで来た道」に次のように書かれている。「渡辺美智雄先生に呼ばれ、朝日新聞に松島みどりという記者がいる。政治に対し強い希望を持っているから面倒をみろというお話し。さてどうやって選挙区を見つける事ができるのか。私は大胆にも「公募」というものを自民党として全国で初めて実施をした。松島さんは見事に合格されて候補者となる事ができたが、地盤もお金もない候補者であったので、資金的に大丈夫かという事を随分人から言われた。松島さんは東大を出ている。朝日新聞の記者である。というのが売りであった。(それでも当選を重ね、大臣までなったのであるから、本人の努力は相当なものであったに違いない。)」
お元気だったころの著書「堂々たる政治」にも若手議員(当時)の名前として私と後藤田正純氏だけが、登場しているが、声を失ってからの晩年のブログにも、このように振り返っていただき、ありがたいなあと思う。私が取材で追いかけ回していた故渡辺美智雄外相が与謝野先生に私を託してくださったというのは知らない新事実だった。心からご冥福をお祈り申し上げます。