話題のトピックについて、詳細に触れています。
2021年5月21日以前の記事です。
2018.05.18
佐世保で特に心に残った、女性の物語の舞台が3つあった。鎮守府(現 海上自衛隊佐世保地方総監部)内に、昭和17年(1942年)に建造された、地下2階、総面積700㎡の地下壕の防空指揮所と、海軍墓地と、浦頭(うらがしら)引揚記念館。
防空指揮所には女学校に通う16、17歳くらいの少女たちもいた。主に各地、各艦からの情報を上官に伝達する役割だったようだ。
日本遺産指定に向け、地下壕がかなり整備され、90歳前後になる彼女たちに現地に来てもらった時のこと。
「どんな仕事、どんな様子だったのか、ぜひ話して下さい」との要望に対し、当初「えっ、話していいのですか?」と驚いた表情だったという。戦時中、「軍の秘密だから、家族にも話してはならない」と命令されたことを、戦後もずっと守り続けてきたのである。
また、深夜の佐世保空襲の際、家に帰っていた者たちも皆、危険を顧みず防空指揮所に集まったという。気が動転して枕や布団を抱えて駆けつけた人もいたそうだ。軍国少女たちの必死な姿が目に浮かんだ。
海軍墓地には、明治以来の個人のお墓(階級によって区画の大小、墓石の大小の違いが甚だしい)もあれば、第2次大戦中に佐世保を母港とする軍艦ごとの碑もあった。
各艦の合葬碑は、生存者たちが遺族を訪ねて一緒に建てるのが一般的だが、生存者ゼロの「鳥海」という艦の合葬碑には、平成の年号とともに、女性の名前が記されていた。
案内してくれた福田武・佐世保海軍墓地保存会常務理事(元・護衛艦くらま艦長)によると「許婚(いいなずけ)が『鳥海』の乗組員だったという女性が、夫が亡くなって後に、奔走して建立した。鹿児島在住だったが、『鳥海』ゆかりの山形県の鳥海神社までお参りに行かれた」と。私は思わず涙があふれて「映画かドラマになるような話ですね」とつぶやいた。
ご主人は生前知っていたのだろうかと、ふと気になった。
この女性が亡くなった後、福田さんが息子さんに連絡を取ると「今後、一切、かかわらない」と電話連絡も拒絶されたそうだ。それもわかる気がして切なかった。
なお、護衛艦「くらま」は安倍総理などの観艦式の観閲艦を複数回務めた名艦だが、廃艦となり、名前、番号の表示がなくなった状態で佐世保港に停泊していたのを軍港クルーズ中に見かけ、寂しさを覚えた。
艦内のとびらや窓、テーブルは佐世保地方総監部の「くらま食堂」に移され、「海軍さんの散歩道バスツアー」などに参加すれば、ここで有料で海軍カレーを味わうことができるという。
戦後の引揚船が着いた浦頭の岸壁には「引揚第一歩の地」の標識があり、ほど近くに資料館があった。
浦頭への引揚は昭和20年10月から25年4月までに139万1646人。博多港139万2429人に次いで2番目。そのほか、フィリピンに埋葬されていた遺体4515柱と307遺骨も昭和24年、引揚船で帰還した。
上陸した引揚者たちは消毒のためDDTの散布を浴び、検疫後約7キロの山道を歩き、(この山道の途中で力尽き、命を落とす人もいた)佐世保援護局まで行った。
引揚手続きを終えると衣服や日用品に加え1000円を支給され、2、3泊後、国鉄でそれぞれの故郷へ向かった。「引揚証明書」の提示により国鉄に乗ることができた。
引揚援護局は旧海軍用地で(昭和20年、最後の海軍兵学校は呉から疎開し、ここにあった。今はハウステンボスになっている。厚生省の引揚援護局は最大、一日1万9千人を受け入れた。この佐世保浦頭港から上陸した人たちの中には森繁久彌さん、加藤登紀子さんのほか、満州帰りの深谷隆司少年(元通産大臣)もいた。
このときの引揚援護局は「引き揚げる人の身になれ、この援護」を合言葉に不眠不休でがんばった。
この地周辺の女性たちは、着のみ着まま祖国にたどり着いた方々に、ふかし芋を差し出したという。浦頭引揚記念資料館で当番していた年配の女性が「私の母も、みんなで、おいもをふかしたと言っていました」と話してくれた。戦争直後、一般国民も食料難に苦しんでいた時代に、そうして同胞を温かく迎えてくれたことに感動した。
さらに、女性にまつわる話。
引揚船の中で生まれた女の子に船長が「祝 出生 命名和子」と達筆で書いた立派な書状が資料館に展示されていた。
そして厚生省が引き揚げた女性たちに出した「引揚婦女子の皆様へ」という通達書が、とても平易な文章で、慈愛に満ちていた。(役所言葉とはほど遠い)
引き揚げてきた女性たちは、外地で強姦などに遭っているおそれもあり、入国時に性病にかかってないか、不本意な妊娠をしていないかなど、検査を受けさせられた。その後、渡されたこの通達には、「皆さんのこれからにとって何よりも大切なのは健康です。全国どの都道府県に帰っても、健康に問題なことがあれば病院に申し出て下さい。検査や治療は無料ですから、安心して下さい」というような内容のことが書かれていた。
この資料館設立の資金集めには、歌手の渡辺はま子さんや田端義夫さんも尽力した。