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2021年5月21日以前の記事です。
2016.03.10
太平洋戦争末期の昭和20年3月10日未明、東京大空襲。米軍機B29の焼夷弾により本所(墨田区)、深川(江東区)、浅草を中心に東京の下町が焼き払われ、わずか2時間ほどで約10万人の人命が奪われた。
ほとんどが焼死だったが、火を逃れて隅田川などに次々に飛び込み、折り重なって溺死した例も多かった。
わが墨田区の死者2万8千人、負傷者4万人、被災者30万人。(当時の方が人口が多かった)
被害の最も大きかった墨田区横網の慰霊堂(国技館の近く)で10日午前、慰霊大法要が営まれた。(都慰霊協会主催)秋篠宮家の眞子内親王殿下がご臨席になり、舛添知事も出席した。私も国会審議とぶつからない限り毎年出席しており、特に、大空襲から70年の節目だった昨年は安倍総理にも来てもらい、追悼の言葉を述べてもらった。
午後は本会議のあと一度地元に戻り、菊川3丁目の夢違(たがえ)之地蔵尊の法要に参加した。お地蔵のある公園は大横川にかかる菊川橋に接している。ここでも多くの人が亡くなったため、町会がお地蔵さんを守って供養している。
現代書道の第一人者だった故井上有一氏(今年、生誕百年)の展覧会に最近行き、「大空襲」という連作の書と出会い、著書「東京大空襲」を購入した。
彼は当時、本所区の横川国民学校(戦後、一時中断を経て墨田区立横川小学校として存続)の教員で、3月9日夜から当直に当たり、B29到来と同時に火消しに当たっていた。真夜中に校舎内で仮死状態になったが、8時間後に校庭で意識を取り戻した。誰かが引き出してくれたらしいのだ。
井上氏が教員だったことさえ知らなかった私は3月5日にこの本に出会った偶然に身が震える思いだった。
印象に残ったのは、千人もの近隣住民が空襲による火災を逃れて横川国民学校に逃げ込んだのだが、火と煙が学校の鉄扉とガラス戸を越し、夜が明けた時には、多くの白骨が散らばり、さながら火葬場のようだった。だが、もっと悲惨だったのは、若い女性が生焼けでお腹が割れ、そこに胎児の姿がのぞいていたのにショックを受けたというくだりだった。
書には「大空襲の体験を、生涯忘れない、否、死んでも忘れない」という旨の強い言葉があった。
以下、著書から抜粋。
アメリカB二九夜間東京空襲 闇黒東忽化火海 江東一帯焦熱地獄 茲本所区横川国民学校 避難人民一千有余 猛火包囲 老若男女声なく再度脱出の気力もなし
舎内火のため昼の如く 鉄窓硝子一挙破壊 一瞬裂音忽ち舎内火と化す 一千難民逃げるに所なく 金庫の中の如し 親は愛児を庇い 子は親に縋る 「お父ちゃーん」 「お母ちゃーん」 子は親にすがって親をよべ共 親の応えは呻き声のみ 全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる 夜明け火焼け尽き 静寂虚脱 余燼瓦礫のみ 一千難民悉焼殺一塊炭素如猿黒焼 白骨死体如火葬場生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此 生残者虚脱 声涙不湧 嗚呼何の故あってか無辜を殺戮するのか 翌十一日トラック来り一千死体トラックへ投げ上がる 血族の者叫声今も耳にあり
右昭和二十年三月十日未明 米機東京夜間大空襲を記す当夜下町一帯無差別焼夷弾爆撃 死者実に十万 我前夜横信国民学校宿直にて奇蹟生残 倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし
ゆういち